「福島から語る」Vol.5 信木美穂さんと避難者Kさん

福島・区域外避難者の苦難-子どもたちの悲しみ、親たちの苦渋

 

nobuki01信木)ご紹介にあずかりました「きらきら星ネット」という小さなボランティアグループの共同代表信木美穂です。
今日は主に東京に避難されている避難世帯を代表して、Kさんにお話をお願いします。
K さん)福島県いわき市から避難してきました。いわゆる区域外です。もうすぐ2年4か月になろうとしています。息子たち2人と一緒に3人で避難していまし た。去年の秋、主人もついに体調をくずし、向こうの仕事を辞めました。今は家族4人で暮らせるようになったのですが、同じ住宅に住んでいる殆どの方は、父 親はまだ一緒に暮らしていない状態で、母子だけが東京で生活しています。今日は拙いお話をさせて頂きますが、よろしくお願いします。
信木)きらきら星ネットは、2011年9月に出来たグループです。被災された方たちが3月16、7日ぐらいから東京にどんどん避難していました。
私 と一緒に共同代表をしている岩田鐵夫さんというイグナチオ教会の方がいます。3月の震災直後、東京の避難者の方たちの支援はどうなっているかについて、岩 田さんとお互い意見を交換する機会があり、とにかく避難所に行こうということで、一緒に避難所に行ったことが、きらきら星ネットを作るきっかけとなりまし た。
実は、その3月の終わり頃、避難所の人たちがとても困っている。子供たちもたくさんいるし、高齢者もいる。若いママたちも結構 たくさん避難してきている。カトリック教会の人、色々な地域のボランティアの方、みんなで「ボランティアをしたい」と言いに行ったのですが、東京都には 「ボランティアは必要ない。ここの避難所には困っている人は来ていない。みんな自立出来ている人たちで、地震、津波、原発事故が収束したらすぐ帰る人たち です」と追い返されました。岩田さんは大憤慨し、これは信じられない、独自に我々の出来ることを探ってやっていこうということになりました。丁度その時、 避難してきた方たちを赤坂プリンスホテルに滞在させるという発表が東京都から出されました。赤坂プリンスとイグナチオ教会は近い。必ず避難者の方たちと接 触できるチャンスはある。サポート出来るのではないか。サポートグループを立ち上げることが出来るかもしれないと、ごく明るく信じ、活動し始めたのです。
き らきら星ネットの前身となる活動が6月から夏休みにかけて具体的に始まりました。丁度その頃、私は6月の後半から毎日、法律家たちの支援団体を通じ赤坂プ リンスに通って、お母さんたちとお話をさせていただいておりました。面会した一人のお母さんがホテル中のお母さんに声をかけてくださり、一日に10人とか 20人と面談していく中で、Kさんにもお話を聞いていたようです。
6月でしたので、まだ線量も結構高く、「帰れるのか、帰れないの では?」と皆さん不安を抱えていました。東京に残るにしても、子供たちの学校、幼稚園のこと、受験のこと、家のことが気になります。「避難世帯のための住 宅に申し込みはしたけれど、まだ決まっていない」とお母さんたちはいろいろと心配していました。混沌とした、ぎりぎりの避難生活が4月、5月、6月と続い ていました。お母さんたちの話から、本当にみんな着の身着のままで逃げてきたのだと分かりました。浪江の警戒区域、避難区域の方たちの避難の話は、報道、 メディアでよく紹介されていますが、いわゆる自主避難といわれている人たちの話はその方たちに直接聞かないと全然分かりません。「つっかけで玄関を出 た」、避難所についてみると「(子供には履かせたが)自分の靴下はバラバラだった」「下はパジャマで、上にダウンジャケットを羽織っただけで、旦那さんの 車に乗って、毛布を体に巻いて…」など、お母さんたちに直接聞いて、初めて分かったのです。
原発事故の爆発を経験された福島の 方たちは、本当に精神的にも不安が一杯で、これからどうなるのだろうと恐怖におののいて避難して来られたということが段々分かってきました。その話はこれ からKさんにしていただこうと思いますが、まず、自主避難の方たちがどうして、どんなふうに避難してきたのか、どんな思いで、何を考え、そして今、どんな 風に生活していらっしゃるのかを、6、7分にまとめたDVDがありますので、映像で見て頂ければと思います。
Kさん)この歌を歌っている人は私たちと同じところから避難してきた、一人の子どものお母さんです。今、同じ団地に住んでいます。
信木)今、映像に出てきた子供たちの一部は、私たち「きらきら星ネット」がしている学習支援、勉強広場、ピアノのおけいこに来ています。2011年からずっと、親戚の子どもが大きくなっているのを見ているような気がします。当時1

 

年生だった子が4年生になり、生まれたばかりの赤ちゃんはもうすぐ3歳になろうしています。そういう時間の流れの中で、こういう思いを今、伝えることが出来て、良かったと思います。
こ こからは、Kさんと一緒にお話をしていけたらと思います。まず、避難を決意したきっかけは、皆さんそれぞれあると思うのですが、情報が全くない中で自分た ちのネットワークを使って避難した人たちもたくさんおられると聞きました。Kさんはどのような状況だったのでしょうか?nobuki02
K さん)私自身は、実はかなり早い時間に避難していました。家を出たのは、原発が爆発する前でした。主人はチェルノブイリの頃から色々調べていた人で、これ だけ揺れたら危ないと言っていました。3月12日未明に、福島の家を出てきてしまったのですが、逃げる最中にラジオでニュースを聞いて、恐ろしくなりまし た。たまたまガソリンがあったので、早く逃げられたのですが、その後ようやく友達からメールがきて、どうやって、どこまで逃げたら、ガソリンがある?とみ んなに聞かれました。逃げたいけれど、ガソリンが足りるか心配というのです。すごく困っていて、ちょっとしかないガソリンをみんなで分けたりしていまし た。逃げたくても逃げられない人がとても多かったです。私たちの場合、早かった理由の一つは、オール電化の家だったことです。停電したら、家の中は夜マイ ナス2度まで下がります。84才の父がいたのですが、ガタガタ震えていました。このままでは肺炎になってしまうのではないかと心配で、とにかく、停電して いないところまで逃げなければ、年寄りと小さい子どもの命が危ないと、先に逃げてきたのです。津波で保育園が流れてしまったところもありました。小さい 2、3才の子どもが流され、お腹には子どもがいるのに、逃げるに逃げられないというお母さんがいました。いわき市内で津波の被害に遭い、家族が見つからな い状態ではどんなに怖くても逃げられないという高齢者の方もいました。そういう理由から逃げたいのに逃げられないという声をたくさん聞いて、すごく辛かっ たです。
信木)その後、Kさんは東京にいらっしゃったと思うのですが、まず、どちらにいらしたのでしょうか?
K さん)結婚して福島に来て、いわき市民になり15年経っていました。生まれは横浜です。まずは、横浜の母のところに私の父を届けなければと思い、いわきを 出て、19時間後に横浜に着きました。何とか休憩を取り、みんなで父の背中をマッサージしながら逃げました。逃げる時に亡くなった方も多かったので、エコ ノミー症候群などを心配しました。母の家に二泊三日しました。二日目の夜、母も病気なので「孫を養えるほどの体力はないし、長い闘いになりそうなので、自 分たちで住むところを探しなさい」と、泣きながら言われ、ここも無理だからと、アパートを探し、都内に移りました。その時点ではまだ、自分たちがまさか避 難所に入ることになるとは夢にも思っていませんでした。どんなにお金を使っても自分たちの住む所を探さなければと思い、幸い、敷金礼金を取らないところが あったので、そこを借りました。友達からの情報で、赤坂プリンスに入れて頂いたのが4月の末です。アパートには一か月位居ました。リサイクル屋さんから洗 濯機等一通り、買ってしまいました。今、当時のレシートを見るのも恐ろしいですが、帰るわけにはいかないと思って全て揃えました。その後、赤坂プリンスに 引っ越しました。

 

nobuki03信木)Kさんはそういうふうに避難されたのですけども、避難所を経由した方も多かったと思います。東京ビックサイトという大きな避難所がまず開始されました。そこに天皇陛下がいらしたのですね。
K さん)天皇陛下が避難所に慰問に来られたのです。私はそこにはいなくて、ビックサイトにいた友達から聞いたのですが、当時の石原都知事が天皇陛下をご案内 してビックサイトに来られた時「ここには本当に困っている人はおりません、陛下」とおっしゃったそうです。仲間たちはそれを聞いて、頷かざるを得ませんで した。車が流された人は逃げて来ていないわけです。本当に困っている人は、確かにお金がなくて車を持っていない人、ガソリンが買えなかった人たちです。津 波にもまれて傷だらけの人もいました。水も少ししか貰えませんでした。一日に1リットルか2リットル位と言われていましたが、実際には、朝、普通サイズの コップに半分位です。後、頂いたのはパンだけでした。でも、困っている人は確かにもっといたのです。私たちは、その辺りから罪悪感を持つようになったのだ と思います。
信木)今回の地震のことを「天罰だ」と言った石原都知事の発言があり、私たち支援者も 憤慨したことを覚えています。津波と震災の被害がメディアで報道されるのは、当時は岩手と宮城でした。福島の情報はなかなか入手出来ませんでした。Kさん たちのように福島から避難した人たちも、自分たちは避難したけれども、残してきた親戚や地域の人々、避難していない同じ学校の子どもたち、お母さんたちの ことをずっと考えてこられたということを、6月に面談している時に伺いました。「私たちは避難してきたから本当に良いのです。でも、保育園のお友達が小さ いのに避難していないのです」などと、多くの人から聞かされました。「この避難所が閉まったらその後、避難出来るのですか。」「住宅の申込みはいつ締切に なるのですか。」残っている福島のみんなのことを心配しているという状況だったにもかかわらず、避難してきた人たちにかけられる言葉はとても冷たい言葉 だったと思います。先程の映像の中にもありましたが、分断という言葉を皆さんも良く耳にされたと思います。福島は今、警戒区域、避難区域とそうでない区域 に別れています。避難区域だったところが、今度は準備区域になり、帰れる区域になっています。線量の問題、被害の問題を抜きにして、どんどん線引きされて います。そこにも分断が生まれています。学校や地域の中で、避難した、避難していないということだけでなく、避難区域の方から「いわきの人たちは避難する 必要がなかったんじゃない?」と言われるとか、エレベーターの中で「あんたどこから来たの」と聞かれ、赤ちゃんを抱いたママたちが怖くて「いわきです」と 答えられなかった等、そういうお話をたくさんの方から聞きました。夏になり、ようやくメディアが福島の避難者のことを取り上げ始めました。自主避難者とい う言葉で括ったために、自分たちで避難を決めて避難してきた人たちが世間から冷たく見られるということが起きたのもその頃です。
それで話は少し変わり、放射性ヨウ素のことになりますが、2011年の4月にヨウ素がどれだけ拡散し、定着したかというようなことがようやく報道されました。
Kさん)6月位まで「いわきは全く被曝していない」という市長の言葉を信じる人と信じない人で闘ってきたのですけれども、実際には、数字は分からないままです。
信木)子どもたちが原発の爆発事故直後に市から貰ったヨウ素剤のことですが…。
K さん)いわき市内の子どもは全員持っていました。39才までの方に配られました。町内会に品物が届き、取りにいったのですが、本当に危なくなったら、市長 が指示を出すので、それまで決して飲まないでくださいと言われました。ただ、最後まで指示は出ませんでした。全部がそのまま消費期限切れになってしまった のです。「放射能は来ていないから飲まなくて良い」と言われたのです。毎時20マイクロシーベルトを超えた時間帯もあったようないわき市内で、みんな水が 欲しくて何時間も外に立っていたのに、ヨウ素剤はいらないと言われたのです。勿体ないし、何のために備蓄したのだろうと思います。今後、このようなことが ないようになればと思います。
信木)話がまた変わるのですが、私はきらきら星ネットで、Kさんの子 どもさんたちや、避難世帯のお子さんたちと触れる機会が多く、去年、ヨウ素剤の話を聞いて、子どもたちの絵を描きました。子どもたちは放射能の被害の中で 過ごしている。希望も持っているし、将来に向かって生きているけれど、不安な夜を過ごしているだろうなと思いました。
子どもたちも 自分たちがこういう薬を貰ったということを、2011年の夏、勉強広場や一緒に遊んでいる時、子どもたち同士で話していました。「あの薬、飲んだ?」とか 「うちは、ママが飲まなくていいって言うから、しまってあるよ」と。東京に避難し、イグナチオ教会の芝生や土手等で遊ばせて貰っているのですが、「これ、 触っていいの? ここに座っていいの? 芝生に触ったら、ママがだめだって言うけど、ここのは東京だからいいんだよね?」子どもたちながらに不安を抱え、 自分たちの体のことをすごく心配しています。「給食の牛乳を飲んでないよ、ヨーグルトも食べちゃいけないんだよ」等、子どもたち同士が普通の会話の中で話 したり、大人に教えてくれたりした記憶があります。2011年の夏は、子どもたちが福島に「帰りたい、帰りたい」と言っていた時期でした。なぜかという と、東京の夏はすごく暑く、空気もきれいではないからです。福島は大自然に育まれているので、「空もきれいだし、山もきれいで、食べ物もおいしくて」と、 すごく自慢してくれるのですが、「東京はどう?」と聞くと、「ぜんぜん良くない。車の排気ガスは臭いし、地下鉄も変な蛇みたいな電車がいっぱい走っている し…。」福島の子どもたちはあまり電車に乗らないので、東京へ来てからは、出かける時、電車に乗らなきゃならないから嫌だと、そんな会話をしながら過 ごしていました。子どもたちを守りたいというのがお母さんたち、お父さんたちの切実な願いで、Kさんのところも、ご主人が研究者でいらっしゃるので、いわ きの家の埃のことも自分で調べ、どれだけ線量が高いかを実際に証明しておられます。
Kさん)除染の ことは東京にいるとイメージしにくいかもしれません。東京はコンクリートの町です。コンクリートなので、水で洗い、それ以上流れなければ、そこで終わりで す。しかし、福島県の場合は殆どが土の地面と緑の森なので、一度落ちてきた放射性物質は、地面が乾くとまた舞い上がる、風が吹く度に舞い上がってまた飛 ぶ、土と一緒に川の水で流れるということで、動きが都市部とはちょっと違います。子どもが遊ぶと、砂埃、土埃がパタパタと立つような場所が一番線量が高い のです。土埃と一緒に吸い込んで持って来てしまう。喉から入り肺へ、そして血液の中に入ってしまいます。下からパタパタ舞い上がるものは小さい子どもほど 吸い込みやすいのです。赤ちゃんは這い這いしていますから、一番濃いところに入ってしまう。でも、赤ちゃんを高いところに置いておく訳にはいきません。い わきなどでは、切り干し大根は下に干すな、1メートル以上高いところに干してくださいと命令が出ました。下に干すと、線量が上がって食べられなくなってし まうからです。1メートルより高いところにつるせば大丈夫ですと案内が出ています。子どもたちは地面が大好きなので、おにぎりを食べたり、砂場で遊ぶこと は心配です。子どもたちが学校で掃除をすると、どうしてもパタパタと埃を舞い上げてしまいます。線量計で測ると、昇降口の線量が一番高い。これを肺から吸 い込んでしまうことが心配なところです。
信木)今、福島市と郡山市で、庭の除染が行なわれていま す。除染したものを全部プラスチックのケースに詰めてブルーシートで囲い、庭の奥に置かなくてはなりません。そこだけ線量がすごく高くなっているらしいで す。除染はしたけれど、結局、放射能の危険からは逃れられないことになり、除染した家の方も、これで本当にいいのかと言っていました。今日の朝日新聞に出 ていた田村市でのことです。
Kさん)朝日新聞の一面に載っていました。田村市は避難すべき地域に 入っていて、除染もして貰ったのですが、除染した後の数値が年間1ミリシーベルトを超えてしまう。でも、もうこれ以上除染する予算がないから、希望者には 線量計をあげよう、それを見て、自分たちで判断し住んでくださいと、政府が市に言ったらしいのです。金はそんなにないと国から言われる。線量計を一人一人 に渡すから、安全に暮らしてくださいと。科学者でもない普通のお母さんに安全に暮らしてくださいと言うのも不思議です。もう一つ、除染後の線量ですが、田 村市の方たちはこの線量に納得していません。でも、今の郡山や福島はこれ位の線量なのです。でも、避難することを一度も認めて貰っていない。その地域の方 たちは同じような線量の中で、もちろん線量計も貰わずに、気をつけながら暮らしています。非常に納得がいきません。
信木)Kさんが福島から避難してきて、一番願っていることはどんなことでしょうか?
Kさん)目先のことだと、住宅の延長のことです。来年の7月までと期限が切られていますので、それを過ぎたら、どんな状態でも福島に帰されてしまうのではないかと心配しています。
分 断がひどいです。いわき市には避難区域の方々と、元々いわき市に住んでいた方々がいます。即ち、被災者が被災者を受け入れるような状態です。でも、避難し てきた人たちは慰謝料を頂いていて、受け入れる側の方はお金を頂いていないのに、税金を払い続けている。向こうは税金を払わずにお金を貰っていると言っ て、醜い争いになっています。車を壊したり、壁を壊したりがあちこちで起きています。今までは、このような争いがある町ではありませんでした。人がものす ごく憎しみ合う町になってしまっているのがとても心配です。さらに、避難している人たちが一斉に避難先の住宅から追い出されて帰るとなると、いわきの人は いわきに帰ります。双葉町や楢葉町の人たちもやはりいわきを望むと思います。自分の地域に帰れない方は、地形的にも気候的にも郡山や福島や会津に比べて、 いわきが一番住みやすいと、いわきを希望するのではないかと思います。そうすると、人口も増えます。分断の問題も出ます。最近になってようやく、避難が認 められている地域の方と普通に話せるようになってきたのですが、この二年間は、本当に会話がまともに出来ませんでした。いわきだと分かった瞬間に、お互い 何かがピシッと走ってしまい、その先、会話が出来なくなっていました。赤坂プリンスの頃は、とにかく「いわきに帰れ、あそこには放射能はねえべ」と言われ るのが怖くて、いわきと言えませんでした。賠償金が支払われ始めると、今度は、いわきの人間が逆に「お前ら貰ってんだろう」と言い返すようになり、向こう もしゃべれなくなりました。お互いにびくびくするような、難しい人間関係になってしまいました。それがようやく最近になって、何人かが一緒にヨガをしたり しながら話をするというような機会が増えてきました。そして、「両方つらいんだ」ということがよく分かるようになりました。お金を貰っているから耐えられ るということではないのですね。何千万円貰ったからと言って、苦しみがなくなる訳ではありません。家族もまだ無理やり引き離されています。そういう思いを している人たちがお金を貰ったために、何も言えなくされているのも、本当に辛いことです。一番辛いのはそこなのです。私たちの町をどうか誰か何とかしてく ださい。何とかみんなが平安に暮らせるようにして欲しいと思っています。国がお金を使えば使うほど、その度ににらみ合いが増え、人が分断されていく。そこ を何とかして欲しいです。もし、福島に行く機会があったら、福島のすごくきれいなところを見て来てほしいです。海や山は、目で見る分には、今でも同じよう にきれいです。横浜生まれで福島に嫁ぎました。15年間は福島県民でした。初めて福島を見て、一発で定住を希望したほどです。11月の福島(いわき)は最 高にきれいです。山や魚がたくさんいる海、きのこや山菜が採れます。目で見る分には今でもきれいです。それを見て欲しいです。それが失われてしまった、毒 になってしまったということも含め、そしてそれが私たちの一番の悲しみなのですが、その美しい福島を見て欲しいです。お願いします。
信 木)東京に避難している方だけでなく、福島県内で避難している方たちもいます。会津若松市に、そして福島の北の方からは、近いと言うこともあり、山形県の 米沢に避難している人たちもいます。色々なところに避難している方たちがいます。避難先での生活は厳しい状況です。例えば、会津若松市の場合、一時自主避 難してきた人たちの家賃が補償されなかったり、学校に行かせて貰えなかった事件がありました。住民票があるところの学校に行きなさいと市が言ったのです。 米沢は、支援団体がどんどん撤退しました。助成金が切られましたが、逆に、帰還支援事業という助成金だと貰いやすいということもありました。要するに、福 島県内に帰りなさいということです。帰還を支援するNPOやボランティア団体なら、お金を出しますという動きです。そのような訳で、支援団体の人たちも辛 いし、困っています。すごく複雑な状況になっています。避難している人たちも、このまま支援が途切れて、避難出来なくなるのかと不安に思っています。福島 県の自主避難の人たちは約3万人から5万人位と言われています。東京には7500人位おられ、関東圏だけで1万人を超えています。
実 はKさんは今回、福島原発被害東京訴訟という裁判を起こされた原告の一人です。是非、皆さんに支援して頂けたらと思います。具体的には、サポーターになっ て頂ければ、次の裁判のお知らせ、裁判傍聴のお知らせ、報告会のお知らせなどをメールでお出しいたします。サポーターをどんどん増やし、国民が関心を持っ て見ているぞという裁判にしていかないと、避難区域の人たちだけの補償で終わってしまいます。要するに、東電がこの位のお金でどうですかという条件を呑ま なければならなくなることになって行きかねない。東京訴訟の原告は今、三人ですが、今後はそんどん増えていくと思います。次回は10人ぐらいになる予定で す。同じような裁判は山形や他の県でも行なわれることになっています。
この間、第一回裁判が行なわれ、Kさんのご主人が読まれた意見陳述書があります。それをKさんに代読して頂こうと思います。
(福島原発被害東京訴訟 第1回公判陳述書を読みあげる)
信 木)Kさんのご主人がこの意見陳述書を読んだ時、裁判の法廷は静まりかえっていました。裁判官にもその思いが届いたと思います。その裁判の直後に、原告側 と被告側両方の弁護士が裁判官と一緒に次の裁判に向けての協議をする進行協議という小さいミーティングをしました。その時に国側と東電側が原告になってい る人たちの長い意見陳述を毎回やるのはやめてくれと言ったそうです。なぜかと言うと、こんなにも思いがこもっている意見陳述がなされると、裁判官の人たち も考えますよね。それを国と東電側の弁護士(代理人)たちは恐れて「やめてくれ」と言ったのです。弁護団は怒りました。そのようなことはあってはならない と。それで、意見陳述は絶対やめてはいけない。弁護士たちも原告の皆さんも機会ある度に、この気持ちを裁判官、世の中に伝えていこうという思いで、この報 告集会を終えました。
信木)2011年の1年目は、自分たちで避難を決めて避難してきた方たちがも のすごくストレスを感じたり、社会の中で冷たい空気を感じていました。マスコミに出たり、こういう交流会で話したいと言う人は、私たちがサポートしている 避難世帯の方たちの中にも、なかなかいらっしゃいませんでした。その中でKさんたちや他の数人の方たちがすごく辛い状況の中で、少しずつ色々な講演会に出 て来られるようになったのです。他にも、今だからようやく話が出来るようになったという方もいらっしゃいます。
質問)首都圏に避難されて、2014年7月が目途ということでありましたが、その区切りには、何か制度的なことがあるのですか?
K さん)いわき市は津波に遭った都市として、災害救助法という法律の対象になっています。私たち区域外の人間を、国は放射能で避難している人とは認めてくれ ません。いわき市は災害救助法が適用され、2年間は避難所避難することが認められています。後1年残っています。この前、延長となりました。三陸では、新 しい住居が間に合わない。今、仮設住宅をたたむわけにはいかないので、もう1年延ばします。みなし仮設住宅も全国一斉に、後1年延ばします。トータル3年 となりましたが、それから先がどうなるのか。とにかく、福島県も国も、私たちに早く福島に戻って欲しいと言っています。しかし母親としては、子供を連れて 帰るのはとても心配です。
信木)東京都内には、都が用意した都営住宅、区営住宅と国家公務員住宅が いくつかあり、避難者の方たちがそこに入居しています。それとは別に、それに間に合わなかった方たちが民間借り上げ住宅といって、(東京には仮設住宅が建 てられないので、公営住宅を避難住宅として提供している)民間のアパートやマンションを国が応急仮設住宅として認めた住宅に住んでいるという状況です。来 月でまる2年になります。東京都は独自に区営住宅などを提供しているのですが、被災地の復興住宅が出来上っておらず、国がみんなを仮設住宅から移動させら れないので、東京も一緒に1年延長している状況です。延長が1年毎なのです。生活していく時、物事を1年毎に考えるということは余りしていないと思いま す。子どもたちの学校の入学、卒業等がありますから…。しかし、国は10年いいですよとは言ってくれません。それが現状です。10年いいですよ、5年 いいですよと言ってくださいという申し入れを、2011年以来、復興庁や国土交通省、他のいろいろな省庁に言い続けているのですが、まだ認められていませ ん。1年毎の国の方針で決まっていく。市区町村に独自の施策があれば、それに乗ってやっていくということなので、東京都の場合、7月なので7月、4月に入 居した人は4月、入居してから2年、そしてその後1年ごととなっていくということです。避難している方たちの状況によっても、自治体によっても少しずつ違 います。
Kさん)特に中学3年とか小学5、6年生などは受験を考えています。合格しても、三ケ月後に福島に帰らなければならないなら、子どもたちも将来の夢を描けません。
質問)東京に自主避難されている方は何名ぐらいですか?
信木)自主的に避難している数は教えられていません。避難している人たちが7500人と言われていますが、その中で5分の1くらいでしょうか?
Kさん)因みに赤坂プリンスホテルにいた時は全部で800人でしたが、そのうち400人が自主避難でした。
信 木)東京都は自主的に避難している子どもたちの数も教えていません。個人情報ということもあるのですが、各自治体でボランティアグループや支援団体が、自 主避難している人たちをサポートしたいので、自分たちの地域に住んでいる人たちを教えて欲しいと言っても教えてくれません。特に、自主的に避難している人 たちが隣の住宅に住んでいたのに、避難者同士だったことがついこの間まで分からず、孤立していたり、ママが独りで赤ちゃんを育てていたりと言った状況が2 年間続いていました。東京には、赤坂プリンスホテルに避難していた人たちが中心に23区に散らばっていたので、繋がりが出来たのですが、赤坂プリンスに入 れなかった方や、他の避難所からの方たちは、他の避難者との繋がりがないまま住宅に入ってしまいました。江東区避難者の殆どが入っている大きな避難住宅が あります。そこは避難者だけですので、お茶会やイベントをしていること等が分っています。特に分散している人たち、民間のアパートに入っている人たちはお 互いに知り合えない。こういう活動や場を知らない限りは、支援団体とも繋がれない。そのまま、2年間過ごしてこられました。孤独死もありました。避難者の 方たちになかなか関心が持たれない中で、このような機会をいただき、感謝しております。

 

nobuki04質 問)訴訟なさったということですが、是非そうあるべきだと思います。現在、避難している人と避難していない人との間に軋轢があると伺いました。残念だと思 います。避難していない人たちも今、子育てをしているわけですね。原発を再開したり、持続しない等はどのような立場にいても同じだと思うのです。子供たち の未来のためにということで、避難していない人たちとの連携プレーは出来ているのですか?
Kさ ん)3月11日に全国で一斉に訴訟を起こしました。南相馬、いわき、山形、千葉も複数の方が訴訟を起こし、連携しています。例えば、千葉は避難区域内の方 がメインです。いわきの場合、避難してきた方、避難出来なかった人も一緒に裁判を起こしているのですが、正直なところ、みんな裁判が怖くて、声をかけても 一緒に立てない。国や東電という大きな会社を敵に回すのですから…。私も裁判など一生関係ないと思って今まで暮らしてきました。自分は関係ないと誰も が思っています。特に区域外の私たちは下手に騒いだら、福島に送り帰されると皆、思っています。今、私は原告ですが、実は、内側から騒ぐな、これ以上騒ぐ と、さらに福島県がやっきになって、戻るように言い出す、とにかく騒がないでくれ、静かに暮らしていようという人が多くいます。まだまだ仲間が増やせない 状態です。誰でもいじめられるのは恐いですし、喧嘩もしたくないです。お金が欲しい訳ではない。でも、そういうふうに思われる。賠償額はいくらとか聞かれ る。逃げられなかった人や、逃げて苦しんでいる人がいる。そういうことを分かって欲しいです。これから先、同じことを繰り返して欲しくありません。私たち の思いはそちらなのですが、それだけ貰っているのにまだ欲しいのかとか、貰えた人と貰えなかった人が一緒に立ち上がっても、やっぱり金かと言われるのも怖 いです。色々なマイナスの要因があって、なかなか原告を増やせない状態で悩んでいます。